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旧:新潟県中蒲原郡村松町の幕末期町内名

村松の地名の発祥については、よくわかっていませんが、郷社、日枝神社及び寺町の正圓寺は延暦15(西暦796)、村社、住吉神社及び清水寺は大同元年(西暦806)にそれぞれ創建されたと伝えられます。ですから、村松町は平安時代に早くも一集落を成していたものと思われます。しかし、当時「村松」と称していたかは不明です。
 永徳2(西暦1382)に日枝神社へ奉納された鰐口に村松山王大権現の刻銘があり、文字ではこれが「村松」として、初めて現れたものです。





本丁通 本丸(現城跡公園)前の通りで、藩の重臣の屋敷が並ぶ通りであった。
城跡橋に向かって左は、かつてはりっぱな土塀、長屋門をかまえた筆頭家老堀右衛門三郎の大きな屋敷跡である。
ここは戌辰戦争後藩主の仮の御殿として用いられた。
仲丁(中丁) 本丁と馬場丁の中間なので仲がついたという。大手門の内側なのでここは城内、丸の内になる。
身分の高い武士の屋敷地になっていた。
(私、Mr.ホームズの自宅も仲丁である。地番表示では「字城跡」となり、城絵図をみると、城の南土蔵跡である。)
馬場丁 今の通りの西側に土を積み上げ築いた土塁があって、その内側のもう一つの土塁の間が馬術を練習する馬場として使われていた。
大手門の南のあたりに厩(うまや)があった。
源太小路 源太という人の名前には諸説があって、正確なことはわからない。このあたりは、重臣級の身分の高い屋敷が並んでいた。
搦手通

搦手門が公民館分館前のあたりにあった。
搦手門の西は城内になる。桐林との交差点より二三軒町よりの所に、門に向かってまっすぐに進めないように、桝形の土塁が設けてあった。

大手通 役場(現在の五泉市役所村松支所)の角のあたりに大手門があった。桐林の角から少し町よりに桝形の土塁が築いてあって、大手門を守る仕掛けになっていた。
大手門の外に当たるこのあたりにも武士の屋敷がつくられていた。
桐林

古い町絵図ではここに通りがなく林地になっていた。戦の時切り倒して障碍として利用する工夫と思われる。
育ちが早く、利用価値の多い桐が植えられたのだろう。

六軒丁 この町ができた当時は通りの東西に三軒ずつ屋敷があったので六軒丁と呼ばれたという。
その後、家数が増えたが名前が昔通りに残った。
新丁 嘉永年間(1848-1852)、藩士が増加したため町の北側に新しい武家屋敷が作られた
天保
14年(1843)九代藩主直央が城主格に昇進し、城郭の整備をした。また外国船の来日、農民の一揆など内外の問題が多かったことも藩士増加の背景にある。
丸の内には、ほか四ツ屋丁、本堂門通り、大手門外、搦手門外、場丁などの町名があった。
西
御徒士町
徒士(かち)、兵卒の身分の武士たちの屋敷があった町。
ここはお城の南御殿のすぐ近くなので、門番、庭番など特別な任務もあったといわれている。
長柄町 主に長柄組(槍など柄の長い武器を使って戦う集団)の兵卒が住まった町である。
軍備の編成で同じ役目の武士たちの住居をまとめて町をつくった。
本堂町 兵卒に相当する武士たちの住まいのあった町である。「本堂」の由来は、近くにあった金剛院の本堂、或いは薬師様を祀った本堂山との関わり、お不動様などいろいろ考えられるが、正確なところは記録に乏しくわかっていない。
片町

当初片側にしか家がなかったので片町と呼ばれた。
お城の南側に位置に御徒士町、長柄町、本堂町、片町と、兵卒の町(まとめて西丁という)をつくって守りとした城下町設計である。
一番南側、片町の道を特別に狭くして家を片側に並べたのは、防衛上の工夫からという。

横丁

浦町 表通り(下町)に対して裏に当たる通り。裏のイメージを避けて浦の字を使っている。鍛冶丁、六軒丁を含め、この線から東、根木町、宝町の武士の町を東丁という。
鍛冶丁
城下町づくりの際、鍛冶職人をまとめて住まわせた
丁の字が用いられていることから武家方、刀などの武具をつくる鍛冶屋の町であったことがわかる。
九軒丁

鍛冶職人、大工、武具師などの職人の家が九軒あったことからこの名ができた。
お城ご用の職人であったことから丁の字からうかがえる。後に家数が増えたが当初の九軒の名が残った。

新町 新町であるから当初はここに町がなかったことになるが、いつごろひらかれた町であるかは記録が乏しくわかっていない。
兵卒に相当する武士の屋敷があった。
根木町 藩政以前からあった町と考えられている。根木は根小屋または根城から由来するが、古い記録がなく詳でない。
古くからの町並みをはさむようにここに武士の住まいを設けたのは防衛上の工夫と考えられる。
宝町 宝暦年間(1751-1764)家臣の増加に伴って作られた。兵卒に相当する身分の武士を住まわせた町である。宝暦の宝の字をとって宝町にしたという。


下町 大手通りから搦手通りまでの間が下町。堀氏入封前の宿場町時代からの町通りで、藩のご用達の店も多く並び、町方を取り仕切る大庄屋の屋敷もこの通りにあった。
高札小路 藩が「定め」や「お触れ」を領民に公示する高札が立っていた通りで、町の中心になっていた。
町村の間の里程の元になる道路元標もここに設置されていた。
横町 由来はよくわからない。五泉新道ができる前は、ここから新田町をへて、木越−五泉、矢津、川内へ至る街道の入り口として大切なところであった。
袋町 由来を示す資料が残っていないが、通りの様子から考えると。
袋物(布製の大小さまざまな入れ物)を作る職人が住んだ町と思われる。
親方小路


仲町(中町) 大手通りから南の突き当たりまで。短い区間だが、ご用達の店も多く、馬の乗り継ぎ、荷の積み替えなど、運輸の中心でもあったという。
上町 藩政以前、宿場町時代からの古い歴史の町並みである。西側に昔からの雁木がわずかであるが残っている。
裏寺

上町の裏に当たる寺町で裏寺という。浄土真宗のお寺が三か寺ここに集まっている。
西往寺と浄誓寺は村上から、円満寺は新潟から移転してきたという。

寺町

城下町作りの時、正円寺、正福寺、安養寺を現在の位置に移転させ、村上から藩主の菩提寺である英林寺をここに移した。城下町では防衛上の視点から町の入り口に寺を集めることが多い。
この通りはかつては村松町の最も重要な入り口であったということになる。



城町

貞亨の大火の後現在のような形にし、貞(じょう)は城に音が通ずるので城町にした。
以前は今の新道から本堂橋へ通ずる小路であったという。

搗屋小路

滝谷川の水を利用して水車で穀物の精白、製粉をする搗き屋のあった所。穀物だけでなく近くにあった村松焼きの窯元で使う粘土を微粉にするために搗いた。

薬師小路

金剛院が本堂山に祀った薬師堂があるので、薬師小路という。

春日小路 春日神社の参道として設けられた道なので春日小路という。
春日 昔の春日神社に至る道にちなんで春日という。かつては郷村との境界に当たり、土居が巡らされていたが今は?跡をとどめていない。一番の西よりに一本杉という巨木があった。
昭和年間落雷で消失したが今でも字名として残っている。


営所通り 明治30年、歩兵第30連隊の兵営が愛宕原に設けられ、この道が造られた。第二次大戦後の火災で校舎を焼かれた小学校、女学校、新制の中学校、農林専門学校などが、空き家となっていた兵営を利用したので学校町と呼ばれるようになった。
新道 長養寺の奥に堀と土塀を巡らした藩の蔵屋敷があった。明治になってこれが取壊され今のような道になったので新道という。
新田町 越中新田とも言われていた。越中(富山県)の砺波地方の土豪石黒氏の一族が、越後に移住して石曽根の荒地を拓いて興した村と伝えられている。(現在でも新田町には石黒姓が多い。)

江戸時代の城下図を見ると、村松の町通りには十文字に交差する道が一ヶ所もない。現在も町の構造が基本的に城下町時代の姿を伝承しているため、曲がり角や食い違いが多く、わかりにくいといわれている。現在町の中にある十字路は、明治以後に道が新設されたか、あるいは小規模の区画整理によって道が付け替えられたことによってできた。

 旧通称町内名で、武家方の町内には「丁」町方の町内には「町」の字を使っていた。御徒士町、長柄町、根木町、宝町など武家方でも町を使う例があるが、それぞれ、西丁、東丁と「丁」を大きくくくってある。